--- 被告人の部屋 ---

第八の被告人 「高英傑」 第九の被告人 「李来発」


台湾では王貞治より輝いているのではないでしょうか。台湾野球の黎明期を戦い抜いた二人です。

第8の被告人 「高英傑」 第9の被告人 「李来発」

 若い外国人選手をチームの練習生として育てるのは今やカープでお馴染みである。 成功までには至らなかったとは言え、南海ホークスでもこういう視点を持ち、しかもそれがアジアに向けられていたという画期的な時代があった。

 それが1980年の高英傑と李来発の二人の獲得である。 高英傑が李来発より一つ年上で、 二人とも東亜高工、台北体専、空軍、合作金庫、リトルリーグ世界大会、アマ世界選手権と全く同じ経歴で、台湾の星として共に活躍してきた。 高は投打ともにハイレベルのセンスを持ち、南海では貴重な左の速球投手として期待された。 また打撃面でも評価は高く、台湾球界では「王貞治二世」とまで言われていた。 一方の李も南海入団直前の台湾リーグ戦で41打数15安打4本塁打11打点打率.365で三冠王。 それまでの4年間でも50ホーマー以上を記録している。

 さて、この優秀な二人であるが、 当時の支配下登録外国人枠もあってメイと王天上(オーテンジオ)に隠れる形で練習生として入団することになる。 先に飛び出したのは高であった。 来日二年目の王天上が7月半ばで帰国すると高は代わって一軍入り。 そして防御率こそ4.33ではあったが、3勝1敗としっかりと結果を残した。 当時、南海の左投手と言えば、高の他には竹口、平沢、高木のわずか3人。 しかもこの3人で合わせて2勝というから南海にとっては高の存在は大きかった。 練習生扱いだった一年目にいきなり外国人選手として一軍登録されたことは特筆すべき点であろう。 一方捕手として入団していた李であるが、 念願の高とのバッテリーを組めないまま外野手に転向した。 しかし依然一軍入りへの期待は高いものであった。

 ところが翌81年、高は肩の故障のためいきなり野手転向となった。 この年の投球回はわずか一回、2四死球で、3アウトは全部三振であった。 打者転向は以後3年の結果の通り成功とはいかなかった。 この年開幕直前に突然西武から移籍してきた実績のあるタイロンが大活躍で、メイが脱落するまでまたも外国人枠にはじき出される形となる。 こういう狭き門を幼少から一緒にやってきた李と競わなければならなかった現状も厳しかったと言えるだろう。 その李は3年目の82年にやっと一軍出場の機会がめぐってきた。 新外国人であったダットサンの右手小指の骨折による戦線離脱であった。 しかしわずか10試合に出場しただけで、ほとんど打者としての活躍は出来なかった。

 二人にとって4年目となる83年。 南海の外国人選手は広島から移籍してきたライトルを含めた3人であった。 3年間の二人の成績から考えれば、既に南海としてはライトルだけの補強は消極的なものであったとも言える。 確実に空いたはずの外人枠を二人のどちらかが埋められないようでは、どうしようもない。背水の陣で望まねばならなかったのである。 まだまだこれからという年齢で、何と言ってもまだプロさえなかった台湾出身の選手。 彼らに外国人枠を適用するのはむごい話ではあった。 しかし4年目の二人は全く活躍できずに終わってしまったのである。 李は15試合に出場、そのほとんどが守備要員であった。 また前年31試合に出場した高もわずか9試合のみの出場で終わった。 こうして高と李の南海でのプレーは終わったのである。

 どのチームも注目していなかった台湾球界に目を向けたわけだったが、 結果的には失敗に終わってしまった。 南海球団にとっては何も残らなかったが、 身売りが囁かれていた南海にとって練習生を育てるという悠長なことは言ってられなかったと言うのも事実ではないだろうか。 そしてそれ以後の台湾勢の日本での活躍もこれが大きなきっかけになったとも言えなかった。

 しかし大きく動いたのは彼らの故郷の球界であった。 高、李は幼い頃から世界の桧舞台に立ってきた台湾の星。 日本でプレーした無数の外国人選手の中で完全に埋もれてしまったはずの二人が、 引退後これほど輝くとは誰が想像したであろう。 二人はアマ球界では世界一の強豪、首脳として台湾ナショナルチームを率い、 オリンピックに颯爽と現れ、栄冠を手にしたのである。 その後の二人の活躍は周知の事実である。 アジアプロ選手権でもできて、 李監督率いる和親が日本のチームを倒す日が来たら笑えるのだが(笑)。

写真右上:母国にいる母親、陳秀娥さんに5日に一度は手紙を書いていたという高。
写真左中:喫茶店のマスターが子供の頃の夢だった李


久々の被告人でした。高と李、今も第一線で頑張られておられるようですね。 高も教師を務めた後、ナショナルチームの同チームのコーチ、李も同チームの監督になり、 二人で郭李を育てました。高はその後解説者などの仕事をし、李も現在は和親の監督で活躍中とのこと。 あ、李が好プレー特集で川崎球場で好捕していたのを覚えています。

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1997 ぼくた兄弟社