よくここまでれたもんだ(笑)

ホークス60年の歴史でこれだけ失言が多く、これだけの失態を冒した監督がいるだろうか。彼一人のため、どれだけ多くのホークスファンが泣きながら去っていったことか。踊るファンには解るまい。しかし、我々はこういった過去を忘れてはならない。本当に野球を愛する人々のため、悪しき歴史を忘れようとする大和民族の性格を改めようではないか。滅びゆくホークスを救うのは、本当に野球が好きなあなたしかいない! 王喜利で寄せられた投稿の中から「暴言」「場外での珍行動」をピックアップしリストにしました。 ここまで王貞治の裏の歴史がまとめられた資料は無いでしょう。 鷹爪の使命の半分は、投稿して下さった皆さんによってここに達成されたと実感しています。 本当にありがとうございました。


1999年5月20日のプロ野球ニュースでインタビューに答えた王は、シーズン序盤にも関わらず「優勝が見えた」と軽はずみな発言。それに止まらず、「巨人はやっぱり気になるよ」さらに「ON対決を実現したい」「巨人は輝いて欲しい」などと、と一チームの監督にあらぬ暴言を連発。さらに「南海ホークスからの選手は優勝は知らないでしょうから」と、南海と南海ファンの心情を全く無視した発言まで飛び出した。シーズン序盤、ようやく首位を守り、これから手綱を締めなければ行けないところ。普通の監督なら「今は勝つことで精一杯だ」とコメントし、指揮官としてのポーズを見せるはず。自らの虚栄でしかない「ON対決実現」などとの発言は、チーム、そしてファンへの礼儀を著しく欠いたと言わざるを得ない。福岡ダイエーホークスより、自らの名誉が優先。そして、それが当然世間に許されていると信じ込んでいるとしか思えない、傲慢な発言だった。


99/2/15に行われた懇親ゴルフ大会で優勝した王監督は、勝因を「もって生まれた運」と豪語した。

98年オフ、ホークスの不振の原因を「南海の負け犬根性」と言い切った。さらに、週刊ベースボールでは「南海時代を含めて約20年間、言葉は悪いけど、馬なりにやってきたわけだからそんなチームをそう簡単に変えられるものではない。」と、なんと20年前まで遡っての責任転嫁。他球団の年俸の半分のチーム状態で、身売りと戦いながら若手中心の将来性あるチームに作りあげた穴吹、杉浦、また資金を存分に使い成功した根本。彼らが苦労して築き上げた財産をことごとく食いつぶしておいてのこの発言は、自分がホークス60年の歴史で最低の監督であることに気付かない、犯罪的行為だった。


98年の夏の連敗街道中に「王貞治ビッグワンカップ」という麻雀のタイトル戦に協力、表彰式にも参加していた。チームが大変なときに何をやっているのかと一部のファンから不満の声。これが掲載された麻雀雑誌の読者の欄には、
「とても驚いた。連敗で最悪の状態の時に、監督が麻雀のタイトル戦に応援に行っている余裕。」という投稿があった。
王監督が現役引退するとき、「多分私の後に背番号1をつける人はいないでしょう(永久欠番)」とのたまった。球団職員のOLたちは「王さんって結構図々しいのね」と話し合っていた。

95年監督就任時、前年貯金できるほどの戦力に工藤、石毛、ミッチェルを加え、「優勝が至上命題」とされていたのだが、これに対し王監督は「優勝できなければフロント共々責任をとる」と明言。ところが結果は優勝どころか5位に甘んじてしまうという大失態だったにもかかわらず、責任を取るという約束を一方的に破棄するという暴挙に出、多くのファンの信頼を失った。

98年開幕直前、NHKで森(前西武監督)に「ちょっと勝ったくらいで喜びすぎ」とバカにされた
99年ゴールデンウィークの対オリックス戦開始前の駐車場にて。チームが勝っているのにファンに後頭部を殴られた。

ファームで万全の状態に戻った加藤を一軍で試すことなく解雇。加藤は「必ず見返してやる」と言い残し、自由契約でカープへ。その後3年間で18勝を挙げた加藤を、なんと再び獲得しようとするこの上なく恥知らずな行為に出る。
加藤も話を聞こうと前向きな態度を見せており、「獲得に手応え有り」と思った瞬間あっさり断らたのだが、実はこれは加藤の罠であり、結局王は二重の恥をかいただけだった。
96年の日生球場最後の試合で、あまりの采配のまずさに怒ったファンに選手団のバスが襲われ、無数の生卵がぶつけられた


王が就任する前年度の根本の成績は貯金9。しかも「王さんに恥をかかせるな」と工藤、石毛、ミッチェル獲得など王の要望を最大限呑んでまさに戦力的にパリーグ最強で臨んだシーズンだった。しかし結果はなんと5位。それなのに「俺はBクラスなんて知らないんだ」「監督していたときも含めて巨人時代は勝ちっ放し。」と責任のがれの発言。「20年近くBクラスにいるから負けるのに抵抗を感じなくなっちゃったのかな。東京で20年近くBクラスにいたら球団は消えているだろうが、九州にあるから・・、それに福岡の人は優しすぎるから・・」と勝てない理由を弱小南海,土地柄に転嫁するという極悪非道な発言を連発。勝てない理由は王の采配、独裁ということに全く気付いていない。
斉藤貢を送るつもりだったのに、審判に斉藤学と口走ってしまったことがあった。慌てて訂正したものの受け入れられず、斉藤貢がベンチから登板させられる羽目になった。また97年7月5日の試合で投手交代の時も、吉田豊彦のつもりが誤って吉田修司と告げてしまい、ローズにタイムリー食らった。二度も同じような失態をするのは選手のことをいい加減に考えてる証拠で、監督として完全に失格である。

脱税事件発覚のとき、自ら出ていって謝罪することもなく、
「残念だ。」と全くの他人事。チームを守る監督としてだけでなく、人間として言うべき事か。
一連のスパイ疑惑に対する王監督のコメント。「プロはいい結果を残し払拭するしかない。
言葉で言っても無理
と、昨年までの4年間、優勝も十分狙える戦力を有しながら3年連続負け越しでBクラス、昨年スパイの協力を得てやっと勝率5割、3位タイという結果の監督が言うことではない。彼が監督をしている限り「いい結果」など残せるはずがないことは過去4年間ですでに証明されている。「結果でも無理」の男が「言葉で言っても無理」とは。

スパイ事件疑惑の時「事実なら追放。そこまでやって勝とうとは思わない。」と言いながら、事実スパイがあったことが発覚。しかし、ただ「残念だ。」と全くの他人事。

阪神新庄の投手登板へ待ったをかけた。「真剣みが失せる。対戦させられた打者の気持ち。活躍の場を奪われた投手の気持ちを考えろ。」と。ところが実は、パークルの時にパリーグ審判団のところへいって、野手兼投手のことを質問していたのは何を隠そう王貞治であった。しかも笑顔で、「お墨付きをもらったよ」と大喜び。実力があればどのポジションやってもいいのに、自分以外が注目浴びるのが嫌だとしか考えられない。

王が自著で「野球をやりたくて早実に進学した」と述べているが、事実と違う。王は東京・墨田区の本所中から都立墨田川高校を受験。その理由は、父親である仕福が「鉄城(注;貞治の兄)が慶應の医学部だから、貞治は早稲田の理工学部へ入学させたい」という夢からだった。しかし、墨田川高校を落ち(1、2点の差での不合格)結局は早実に入学。つまり、不本意入学だった。


98年、ドラフトくじ引きに向けて、「麻雀の盲牌より緊張するよ。選抜の優勝投手の腕を見せてやる。」と語った。世界のホームランキングになって、まだ自慢を忘れていない。
98年、王監督は抑えの岡本を前半戦から同点、あろうことかビハインドの場面でも起用。シーズン中盤、岡本は疲労からリタイヤ。復帰後もやはり同様の起用をされた岡本は、疲労の蓄積から99年の開幕に間に合わず、大きな戦力ダウンを招いた。さらに99年シーズン開幕後も、先発で3イニングを投げノックアウトされた吉武を翌日の試合で2イニングのリリーフに使うという非情采配を行い、投手潰しの反省が全くない事を印象づけた。就任から5年。投手の役割を明確にすることなく、常にゲリラ的な起用を行うことで精神的・肉体的な負担を倍加させ続けてきた結果が、現在の投手陣の惨状につながっていると思われる。

就任当時,秋山の移籍騒動が起こった際、「話が違う」と必死になって残留を勧めていた。
はじめから若手を育てる気が無かったことがこの発言からわかる。
98年、少ない出場ながら随所でいいプレーを見せ、ヘボ采配を何度となく救ったであろう、鈴木慶祐選手を解雇した。野球の現場を第一に考えないフロントが、高年俸を理由に解雇したのだろうが、そのフロントとよく相談もせず、来季戦力会議の前に出会った鈴木に「来年も共に頑張ろう。」等と口走って結果として鈴木に誤解を招かせ、戦力会議の席で恐らく、大した鈴木必要戦力論も説かずに、結果としてまだ成績的にも体力的にもプロでやっていける筈であった鈴木選手の野球に対する情熱を奪ってしまい、現役引退に追い込んだ。

96年の開幕戦(対千葉ロッテ@千葉マリン)開幕投手・園川に“試合後”「開幕投手には格ってものがある」と激怒。
彼の思考では伊良部や小宮山が「格のある」投手のようである。しかし試合は敗戦に終わっており「負け犬の遠吠え」に過ぎないことが発覚。
吉永が極度の不振からある日突然4番打者からいきなりスタメン落ちになったが、こともあろうにその日のうちに王監督は、「4番は城島しかいない」と報道陣に言い放った。これは前日までの自分の采配を否定する発言で、ファンにとってみたら「今まで嘘の野球をやっていたのか」ということになる。しかも吉永は傷つき、選手への気遣いの出来ない、コロコロ方針を変えてしまう監督ということを露呈しただけだった。


1983秋、読売監督就任時「打高投低のチームを作りたい」と異常なコメント。隣で堀内投手コーチが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。1985秋、ドラフトで桑田真澄を指名。前言を撤回したのか忘れたのか「投手王国を作りたい」と発言。チームの強化方針に関してなんのポリシーもないのは、既に当時に端を発する。
吉武、ヒデカズ、佐久本という若い将来の投の柱を、
チーム状況優先のため、先発、中継ぎ、抑えと回しまくり、
「下柳風」の肩の作り方を強要させる結果に。自分の政権の事だけを考えた、まずい起用法であり、
結果的に生え抜き先発投手が全く育たなくなってしまった。

どうしようもない投手と言われたボルトンを、数人の外国人選手の中から王監督自らテスト、合格させたが、結局シーズン中も全くダメで、田尾に「投手として無理」と烙印を押される。その眼力の無さを露呈しただけでなく、毎年自分で獲得するとわがまま放題。
その理由もあってか、98年の外国人をフロントは全員解雇、99年4月まで外人が一人もいないという状況になってしまい、その理由が自分にも少なからずあるというのに、一方的にフロントの責任にした。


98年オフ、巨人・原総合コーチ就任について、二軍監督を経験するべき。その経験がないから僕は苦労してるんだ。」と発言。勝手に自分の苦労で選手に迷惑をかけるような暴言だった。

4年間、抑えの投手と試合で心中できなかった。また、調子の悪い抑えの切り札を、敗戦処理で何度も登板させた。木村恵二、ホセ、岡本、作久本皆経験あり。投手の性格や適応性、相性などを全く無視して、バカの一つ覚えみたいに、左打者には左投げのワンポイントリリーフを送り、成功しては自分のおかげだと喜び、失敗すれば投手、捕手のせいにした。

99年の西武との練習試合で、9回、2塁ランナーの大友が汗を拭おうとヘルメットに手をやった際、キャッチャーの坊西が「(禁止されている)打者へのサイン伝達行為ではないか」と審判に申し出た。ダイエーが起こしたスパイ行為のためにわざわざパリーグは監督宣言を出したというのに、その張本人ダイエーにスパイ行為と言われては西武ベンチも黙っていない。東尾監督は「納得がいかない。この野郎!」と激怒、伊原コーチも「そこまでいうなら退場にしろ!」と怒りを隠せないでいた。これに対し、王は「サインを送った送らないは別に、審判も勉強」と張本人チームの監督としては無責任で脳天気な発言。

99年4月7日、日本ハム戦で、好投していた先発若田部が、7回突如崩れた(4死球)。いつもながら何も用意できてなかった王監督は「予測できなかった」事態と、慌ててリリーフ陣を送り込んだものの、今度は王の懐刀吉田も打ち込まれた。最後は何を思ったのか5点ビハインドで、抑えの切り札山田を登板させ、ファンの怒りを買った。この意味不明の采配に王監督は「どうも投打が噛み合わない」と、全くの他人事。
99年4月8日、北九州での行われたロッテ戦でダイエーの投手陣がメッタ打ちを喰らい、22-2のスコアで大敗した試合で、先発吉武に代わり登板した2番手土井をさらし首にした。3連続押し出しを出しても交替させず、田淵張りの非情采配に某解説者も「投手を使いたくないのは解るが、客に失礼」と王監督をバッサリ。開幕2日目には王監督も「防御率0.50だね」と計算違いをして大喜びだったが(本当は0.51)、この日のためにあっと言う間にリーグ最下位の4.04。失点も25とダントツとなった。
98年、優勝争い真っ只中のオリックス戦(in GS神戸)で、1点のビハインドだったにもかかわらず、好投の長富を漫然とウィリアムズに代えたとたん押し出しを含む自責点4。それだけなら単なる継投ミスで済むが、押し出しで3点を失って、逆転がほぼ絶望的になってから初めてなんと抑えの切り札岡本を起用。

放出した選手が大活躍だ。田畑、高木、加藤、下柳、山本、木村、武田、広田、吉田豊、馬場、西など数え上げればきりがない。このうち大半が試されることなく何も考えずに放出された。

98年5月4日、一塁ランナー吉永が3塁に進塁してから代走を送った。
98年終盤、素人が見ても無理だった西村や武田の中4日先発を実行し、その度に明らかに疲れが取れていなくて打たれているのが分かるのに、3回も実行した。その頃の2軍では、木村恵二や若田部、吉武などが先発して合格点とも言えるピッチングをしていたのに、1軍に上げる素振りも見せなかった。このようにして田畑も加藤も放出されたのである。加藤も二軍で完璧だったのに使われることなく、放出された。

ホークスの勝ち数というのは「選手の能力が王の采配をリカバーできた試合」。負け数は「誰が監督していても負けていた試合」+「勝てていたのに王の采配で逃した試合」で明らかに後者が多い。


98年6月13日の対ハム戦にて、3対3の同点の場面、7回頭から、ルーキーの永井投手にプロ入り初登板させた。(ここまでの試合の流れは互角であった。)プロ初登板ということは、即ち、「計算できない」訳である。結果、彼の失点が決勝点となってチームは負け、しかもその後の永井投手の使い方も不明のままとなった。
99年キャンプで打撃投手として登板した。前日はは最終調整と称してブルペンでなんと100球も投げ込んだ。さすがに疲れたらしく、当初は「小久保や吉本になげようかな」とはしゃいでいたのに、この日の投球練習後には「誰に投げるかわからない」とトーンダウン。日本ハムの上田監督が自軍のキャンプをあちこち見て回っても時間が足りないというのに対し、同じ監督が選手管理もせずに、こんなことでくたばっているのは最低最悪の行為だ。

99年4月16日、福岡ドームで行われた対ロッテ3回戦で先発した山崎が、不安定な投球で5回途中でKOを喰らった。あまりの不甲斐なさに、王監督は昨日こちらも散々だった土井と一緒に二軍落ちにすることを決めたのだが、開幕初登板の結果で判断するのは長嶋と同じ。オープン戦の段階で、公式戦で通用するかどうか見極められなかった監督の手落ちなのに、またもや責任転嫁だった。

就任1年目の王監督は、94年はDH専門だったカズ山本を、レフトの守備につかせた。山本は、ファウルボールを追ってフェンスに肩から激突、その少し前にヘッドスライディングで痛めていた肩を完全にこわしてしまい、それが原因でシーズンオフに退団となった。


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